鬼怒川大水害のヘリコプターの威力

昨日、鬼怒川の氾濫のテレビ中継を固唾を呑んで見守られた方も多いのではないでしょうか?

シネマ以上の臨場感で危機一髪の救出劇が目の前に展開されました。

自衛隊機に被災者が救出されるたびに拍手を送ってしまいました。

しかし、今日時点で25名のかたが行く不明と報道されています。

ご無事を祈るばかりです。

 

ところで今回ほどヘリコプターの威力を実感させられた事項はないのではないでしょうか?

昨今、オスプレーなどや墜落事故の多さでとかく不評のヘリコプターですが、

(ドローンもそのひとつです)

このような災害での人命救助や報道においてはその能力は他に変えられません。

しかし、今回生の被災者の姿をまさに同時テレビが生中継して

われわれがそれをまるでひとつのドラマのように

鑑賞しているその便利さに何か違和感のようなものも覚えてしまいました。

 

鬼怒川の決壊した堤防に到達したのは最初はNHKでした。

そのとき自衛隊機は確か1機しかいませんでした。

まだ救助は始まってません。

NHKによってその惨状が刻々と放映されてゆきます。

やがてNHKを見たのか他の民放のヘリもその現場に集合してきます。

テレビ局にとってスクープ現場です。

ただし、テレビ朝日だけは遅れてしまい

生中継はしばらくできませんでした。

失態です。

どうやら他局から映像を譲ってもらい、遅れて放映していました。

 

 

孤立して救援をまつ被災者の人たちは最初は報道のヘリに助けを求めて

必死に手を振っていました。

しかし、テレビ局のヘリは助けてくれないことを悟ると

群がる報道ヘリには見向きもしなくなります。

自衛隊機にだけ向かって必死に助けを求めます。

テレビ局はその被災者が窮地にあればあるほど絵になります。

各局群がってできるだけいい角度で救助される姿をとるのに必死です。

最初は自衛隊機より圧倒的に報道ヘリが多かったのですが、

やがて自衛隊機も増えてきて一安心になってゆきます。

 

この構造は報道の役目という見地からはテレビ局にとって当然の絵姿で

役割をしっかり担ったということができるのでしょう。

しかし、何か変なすっきりしない後味の悪さが残りました。

テレビ局にとって報道される被災者の心情は二の次です。

流されてゆく被災者もただただ映しだし続けるだけです。

事件現場の真の姿を報道する使命感で一杯です。

 

 

テレビ局のリポーターはまるでときめきながらレポートに熱中していたような気がします。

テレビ局にとっては災害は最大のエンターテイメントでしかないように思えます。

いいネタのひとつなのでしょう。

 

そこには神妙そうで同情に満ちた顔でコメントしている表情はあっても

何か慎み深さが感じられません。

マスコミの傲慢さ冷血さえ感じます。

特に民放の功名心には嫌らしさを感じえませんでした。

 

実際に各局が群がってスクープする必要があるのでしょうか?

たとえば最初にたどり着いたテレビがその現場を代表して

画像を収録して各局と共有す、

他の現場は別の局が担うとか・・・。

各局協力し合って救助活動を見守り、支障とならないポジショニングできないのでしょうか?

 

今回のようなこうした劇場化した災害に我々がとりべき態度、

そして学ぶべきものは何なのでしょうか?

このような被災者、災害を2度と繰り返さないこと?

このような生中継をもう見ることができないような社会システムを作り上げること?

 

ひとつだけ大きく感じたことがあります。

この災害の本当の原因は何なのかです。

それは確実に地球温暖化です。

この災害は我々の便利な生活が生み出した人災というべきもののひとつなのです。

われわれはそのことにまずは気づくべきなのです。

もはや何らかの手を打つべきときなのです。

単純に原発反対とはいっていられない事態になっています。

 

今回の水害の犠牲者は残念ながらたぶん多くの方を数えることになると考えられます。

心からのご冥福を祈ります。