夏の甲子園が始まりました。
男子なら一度は甲子園でプレーすることを夢見たのではないでしょうか?
甲子園大好きの方も多いはずです。
プロ野球では味わえない筋書きのない予測不能なゲームが
何とも言えない醍醐味です。
若いころはわざわざ甲子園に好きな選手を見に行ったこともありました。
しかし、最近の高校球児の意識には少し違和感を覚えることがあります。
選手宣誓などでも時々あるのですが、
自分ら全国の人たちに夢と希望を与えるという意識です。
そんなものは飴玉のようにハイ上げますと言う代物ではありません。
感動するかどうかはたまたまの結果で人によっても違います。
それを自分らが意識して自分らがプレイーを見せることで
与えられるという傲慢はどこから来るのでしょうか?
それとも一生懸命感動をもらおうとみている
他力本願の軽薄が横行しているから??
最近のアスリートも同じようにこれらの言葉をよく口にします。
勇気を与える
絆を確かにする
とか何か勘違いをしているセリフをよく耳にします。
もともと野球やサッカー、各種のスポーツなどは
個人が勝手に好きでやっているだけではないのでしょうか?
慈善事業や奉仕活動で行っていることとは少し違います。
我々がそれを面白いから見るだけであって
何もそこから何かの答えを出したいわけではありません。
確かに一生懸命戦う姿はすがすがしいのですが、
それだけです。
地元のチームが優勝して嬉しいのは確かです。
それは地元愛からくる嬉しさで
そんなに重いものでもないのです。
最近よく耳にする言葉がもう一つあります。
諦めない姿
です。
諦めない姿を人々に見せたいなどとよく口にします。
勿論、負けそうなときや敗北した時によく聞く言葉ですが、
それでは一体勝負を諦めた姿を見せる選手はいるのでしょうか?
人は多くの場面で日常的に一生懸命諦めず努力して生きています。
勝負やゲームで諦めない姿は当たり前のことです。
そんなアスリートの当たり前をありがたがって拝む気は
全くありません。
何かを与えてやるというその特別な意識と姿勢に
最近はうんざりしています。
感動や勇気や夢はそんなに安っぽくはないのです。
君たちが勝つことでそんなものはやってきません。
スポーツを見るのは人生の暇つぶしの一つです。