昨日一昨日と天皇陛下が被災地を訪問されている報道がされています。
放映されているそのお姿を見ていると何故か涙が潤んでくるのは
単に私が年をとってしまったからなのでしょうか?
天皇陛下は震災以来,度々被災地を訪問されて
被災者たちを激励されています。
また先般はフィリピンを訪れ、日本及びフィリピンの戦没者たちを
慰霊されています。
慰霊の旅は即位以来、激戦の地を訪れられて英霊の鎮魂に勤められています。
そのお姿を見るたびにお心の有難さと日本人であることに喜びを感じるのは
私だけでしょうか・・・・・。
天皇制には賛否両論があるのも確かです。
太平洋戦争の大きな過ちへの天皇の責任なども論じられています。
しかし、この現代でも日本の国民の精神の中心に
天皇が歴然と存在していることも否めません。
いわば天皇陛下皇后陛下は国家元首というよりは
我々日本人の父であり母であるような気がします。
いつも国民を見守り心配し続けてくれる親のような存在です。
我々日本人のすべての家長であり神様でもあるのです。
確かに日本人は無宗教であるとも言えます。
しかし、多くの国民の心の中心には古より
キリストやムハンマドなどの神の代わり存在し続けていました。
そのお陰で宗教にまつわるような諸外国でおこっているような
争いを避けてこれたともいえます。
我々は天皇が常に日本人の中心にあったからこそ
キリストやイスラムを受け入れる必要がなかったのです。
人は弱いものです。
自分の心を支えるために
自分以外の絶対なるものを、すべてを超越した正なる存在を
創造しその拠り所としてきました。
それが宗教です。
その宗教は人の創造物であるがゆえに
都合よく時代、権力者によって歪められてもきました。
それは多くの災いをもたらしてきました。
特に一神教国家においては永遠と争いが続いています。
我々日本人には弥生時代以来、すでに中心なる具現的な存在、
即ち天皇を中心として国家を形成してきたために
宗教はそれほど重要ではなく、
言ってしまえば娯楽的な存在として扱ってきたように思えます。
日本人の精神への付加価値的役割です。
特に仏教がその役割を担いました。
我々の真の宗教は神道であり、即ち天皇国家崇拝です。
これは極めて緩い崇拝で、我々は複数の宗教も受け入れています。
この海外からみれば極めていい加減な宗教意識が
我々日本人の多様な精神と価値観、平和な精神を生み出しています。
天皇の存在があったればこその結果です。
海外の諸国と比較すると極めて明確です。
常に誰かが見守ってくれているという意識は
日本人の心を安心させ心を平穏に保ってくれます。
安堵感に溢れてきます。
今、アメリカの大統領選挙が話題になっています。
彼の国や欧州、中東などの永遠と戦い続けている国立の不幸は
その一神教にあるといえます。
人を幸福にするはずの神がもっとも人類を不幸にしている元凶です。
自由国家アメリカは常に精神的な拠り所を持つことなく
経済とキリストを信奉した結果、
これまでもっとも殺戮を行った国家であることは忘れてはなりません。
日本人であることの有難さ、幸せは
天皇がその中心にあられることの結果でなることは
忘れてはなりません。
昨日今日と
日本人で良かった
と思っているのは年のせいでもあるのでしょうが、
やっと亡くなった祖父の言葉がわかってきた気がします。